今はこうしておれに尾つぼを振っているが

賢明なる上司ならば、「こいつ、今はこうしておれに尾つぼを振っているが、油断はならん。おれのライバルがおれより強くなれば、今度はそっちに尾つぼを振っておれを裏切るにちがいない」そう考えているにちがいないのである。古来、蔭ひなたのある人間が大成したためしはない。もし上司にそれを見抜くだけの器盤がないならば、そのような上司はこっちから見限ったほうが賢明なのだ。ひとつの行動について、それが、「心の通うもの」であるかそうでないか、かならずそれはどこかに表現されるものだ。ごまかしがいつまでも通用するわけがない。高校のときにぼくの下級生だった少女が、「それだけあたしが悪人だったんでしょう」と言ったのはそんな意味ではない。それだけ自分に対してきびしくあることができる理性があった、という意味なのだ。「苦労は買ってでもせよ」というむかしからのことばがある。これは、「それによって人に認められるから良い結果を生む」というだけのことではない。その苦労が、自分自身の血となり肉となって自分を大きくするからなのだ。情は人のためならずと言うが、苦労もまた人のためならず、自分自身のためなのである。弱い男を演出する男の策略?女が強くなった0・ますます女性が男性に対して強くなりつつあるように見える。第一に、法的な立場がそうである。社会的な発言力がそうである。政治家たちは、女性を無視しては当選できない。何しろ、女性のほうが有権者が多く、投票率も高いのである。候補者たちは争って女性にアッピールするかつこうをし、女性におもねる政見を述べている。ウーマンパワの伸長はとどまることを知らない。男女関係についてもそうである。かつて、「犯罪の蔭に女あり」と言われた。今はそうではない。女が主役になっての犯罪が、ほとんど毎日のように発生する。保険金欲しさにわが夫を殺す女まで出て来ている。女が男を作り、幼いこどもを残して家出する。残された夫は、こどもを連れてテレピに出て、「おれが悪かった。これからはきみをたいせつにする。どうか帰って来てくれ」と泣く。若い女がニ人、道を歩いている。向こうから、ひとりの青年が来る。「ね、あの人、ポルがどっち側にあると思う?」「右」「あたしは左、よし」すれちがいざま、女の手が青年の股聞に伸びる。「キャッ」と叫んで、背年は逃げる。女二人はケラケラと笑って、「右だったわよ、あたしの勝ち。さあ、千円ちょうだい」現実に筆者が見た光景である。