三人の若い女がテーブルを阻んでおしゃべり

また、こういうこともあった。喫茶店である。三人の若い女がテーブルを阻んでおしゃべりしている。「ね、あそこにいるあの子、ちょっといいじゃない?アタックしてみょうか?」「へえ、あんなのがあんたの好み?あたし、その横のがいいわ。こっちの命じることをなんでも聞きそう」「じゃ、あたしは最後のひとりでいいわ、どうせ今夜だけの遊びだもの」やがて、どうやら話がまとまって、三人の女たちは、かなり離れた席にいる男たちのところへ誘いに行き、六人でその店を出て行ったのである。同棲している男女がいた。ともに大学生である。女がアルバイトでスナックに勤め、十日もしないうちにバーテンと親密になった。同棲している男子学生がそれを知った。知った彼はどうしたと思うか?女をなぐりつけてたたき出すのが、筆者の学生時代の常識であった。そうではないのだ。彼は女にすがりつき、「ぼくを捨てないでくれ、バーテンと、会いたいときに会っていい。この部屋を使ってもいい。そのときはぼくは外に出ている。けっして邪魔にはならない。別れないでくれ」哀願したそうである。まさに女性上位時代である。いわゆる淘んでいる女にとっては、わが世の春だ。ーーであるかのように見える。しかし、はたしてほんとうにそうであるうか?これだけ遣う男と女の生理男女関係というものは、一部の思い上がった女たちが錯覚しているようなそんななまやさしいものではないのだ。プレイガルは、「男遊びをしてやる」「ポlイハントする」いかにも自分の行動が主体的であるかのように、そう考えている。ところが男もまた、「この女をもてあそんでやろう」と思っているのである。男によってはその場合、わざと受身の姿勢になる。受身の姿勢になる男が増えてきた。それだけ、男がずるくなったせいである。その姿勢にかかわりなく男が、自分を主人公にして女を「もてあそぶ対象」と見ている点では、同じである。この場合、男と女は対等である。「対等なら、よろしいじゃないか?」そう言う女があらわれそうである。たしかに、「対等」でよろしい。その時点においてはそうである。しかし、出発点はそうであっても、人間関係というものは変化する。第一に肉体的変化がある。男の肉体は、女によって変化しない。性病については男女平等だが、いかに相手から影響を受けるかについては、天地のひらきがある。ここでくわしく書くことは控えるが、くだらない男にひっかかっては、一生自分の肉体を損なってしまうものである。