どの程度の「あきらめ」なのか、それが問題である。それがなるべく小さな「あきらめ」であることが望ましく、そのためにも交際の初期の段階での観察が重要なのである。その「あきらめ」ができない場合がある。我慢の限界を越えるのである。当然、そこで結婚生活は破綻する。むかしにくらべて、今は離婚率が高い。これはひとつには、離婚を妨げる外的条件が少なくなったせいであり、またそれだけ男女の関係が自由になったからである。女の地位が向上したからでもあり、離婚しても生活することがらくになったからでもある。それだけではない。男も女も、アプリ 出会い系 を使って「あきらめ」の許容量が低くなったためでもある。あきらめるかわりに、「あたらしくやり直そう」という気になるのである。この意欲は、たしかにりっぱである。けれどもその一面、辛抱強きが失われてしまった結果、ということも考えられる。恋愛するのも手軽なら、別れるのも簡単になった。自分に対しては寛容でありながら、相手に対しては寛容ではない。このような人は、あたらしい恋愛や結婚をしても、また同じことをくり返す可能性が強-w「妻を要らば才長けて」ということばがどの程度男の本音をあらわしているかを書こうとしたのだが、どうやら話は脇道に外れてしまったようだ。異性の本音を知るのはむずかしい。正体を知るのはもっとむずかしいのである。躍もが毘めた普通の女高校三年のとき、ぼくは一人の少女を好きになった。その少女は、同じ部の二年生であった。彼女の容姿は普通であった。そう豊かな家の子ではなく、敗戦直後のことなので、その服装もよくはなかった。多くの男をひきつけた女の場合つまり、外見的には、ぼくがその子を好きになるとくべつの理由は、まったくなかった。ただの下級生であった。あたまは良かった。女子では学年で一番であった。あるとき、女生徒の消息にくわしい男がぼくに説明した。「ほんとうは二番なんだ。ところが一番の子が病気長欠で順位が下がり、あの子が一番になった」後年ぼくはその少女に、そのことの真偽を問うてみた。「いいえ、その前から、あたしは負けていなかったわ」きっぱりと、彼女はそう否定した。ま、そういうことはどうでもよい。ただ、彼女が生まれつきのあたまの良さに加えて努力で一番の座を確保しているのはたしかなようであった。彼女のその頭脳の良さと向上心が、ぼくをして彼女を好きにならしめた要素のひとつであることは、これは否めない。

しかしそれは、重要な要素ではなかった。ぼくが彼女を好きになったもっとも大きな理由は、彼女が率先して動く、という点であった。指名せずにめんどうな用や苦労する用を口にすると、まっさきに立つのが彼女であった。まったくいやな顔をしなかった。何か用があればそれは自分がするのが当然、という表情であった。それは、人が見ていようといまいと、同じであった。彼女の働きには、「義務としてしている」という感じはなかった。楽しげですらあった。教師もぼくたち上級生も、自然に彼女にもっとも用を多く命じることになった。どうせ何かをしてもらうのであれば、気さくに承知して迅速に完全になしとげてくれる者がいいにきまっているのである。彼女は女子部員のなかでのリーダーであった。自然にリーダーになっていた。まず、自分が動く。自分だけで間に合わないときにはじめて友だちに協力を求める。いわゆる「腰が軽い」のである。尻軽女とは貞操観念のない女のことだが、「腰が軽い」という表現は、それとはまったくちがう。労働を嫌わないという意味だ。だいたい才女というものは、乙おつにすまし込んでいたりへんに気取っていたりするものだが、彼女にはそんな点はまったくなかった。いつもにこにこしており、冗談を言い、ずら好きであった。だれもが彼女を、「いい子だな」と認めていた。後年ぼくは、「あのころも、きみはだれからも好かれていた」と言ったことがある。すると彼女は、「それだけあたしが恩人だったんでしょう」と笑った。このことばには興味がある。彼女だって、いつも心楽しく働いていたわけではないのである。ときには動きたくないこともあったであろうし、なぜ自分だけが苦労しなきゃならないかと考えることもあったであろう。仕事を自分に押しつけるみなにいやな顔をしたいときもあったであろう。、.圃品ム彼女は、自分のなかのそんな部分を殺した。一瞬のうちにねじ伏せて、席を立った。自分の胸に走ったことを人に知られないように笑顔になった。それだけ人を偽ることもあったという意味の「悪人」なのである。人間だれしも、好んで苦労を買って出たくはないものだ。しかし、だれかがそれをしなければならないとすれば、自分がそれをしよう。強制される前に自発的に行うほうが自主性がある。ぼくは彼女のそういう気質及びその仕事ぷりの明るさと的確さによって彼女を好きになったのである。今でもぼくは、少年の日にその子を好きになったことについて、肯定的である。

女が飾るほど男は逃げる女たちは男に好かれようとして、じつにいろいろの努力をする。化粧する。服装におしゃれをする。気の利いた会話が出来るように練習する。整形手術をし、金品をプレゼントする。性的に挑発する。教養をひけらかす。ま、そのようないろいろな努力もけつこうである。また、それが効果がある場合も多い。しかしここで問題なのは、自分をアッピールさせるその手段によって、それがどんな男のどんな部分に結びつくか、という点なのである。ある方法によってある男を自分にひきつけることが出来たとする。するとその男は、その方法に弱い性格なのである。表面を飾り立てることによって男を誘惑するのは簡単だ。しかしそれでは、表面だけを重んじる男がくっついて来るだけである。けっしてきみ自身のプラスになるとは思わない。ある恋人同士が言い争っていた。「あなたはあたしをそんなふうにしか思っていなかったのか?」「それはそうさ。きみはおれにそんな女として接近して来たじゃないか」「だまされた」「いいや、だましもだまされもしない。おれたちの結びつきは最初からそういうものなんだ」「人でなし」「最初からおたがい、人格とは無縁のところでくっついたんだよ。そんな相手と結婚する気なんかになるものか」男もかなり身勝手だが、女も男歌批難することはできない。人はどこかで見ている話をもとにもどす。ぼくは高三のときに率先して動くその少女を好きになったが、これは恋愛に限定されるものではない。今年も、多くの若い娘たちが社会に出る。あるいはあたらしい学校に入り、それぞれのグループ活動に身を置く。上司や先輩に愛されるもっとも基本的なことは、笑顔で積極的に動くというこの一点なのである。ところが世の中には、人の見ているところではいかにも自分が勤勉であるかのように振舞いながら、人が見ていないと骨休めする者がいる。男にもいるし、女にもいる。これを、「蔭ひなたのある人間」と呼ぶ。同僚にこんな人間がいるほど腹立たしいものはない。しかも上司におべんちゃらを使い、あれこれと注進し、愛想笑いをふりまく。こんな手合いが出世することはよくある。上司の中には、「こいつはこういうずるい人間だ」そう判断しながら、その人聞が自分にとって都合がよいので、調法がる。本人は、「してやったり、うまく行っているぞ」そうほくそ笑んでいる。なんぞはからん、そういう小ざかしい人聞は、ある日利用価値がなくなれば、バッサリと切られるのである。

賢明なる上司ならば、「こいつ、今はこうしておれに尾つぼを振っているが、油断はならん。おれのライバルがおれより強くなれば、今度はそっちに尾つぼを振っておれを裏切るにちがいない」そう考えているにちがいないのである。古来、蔭ひなたのある人間が大成したためしはない。もし上司にそれを見抜くだけの器盤がないならば、そのような上司はこっちから見限ったほうが賢明なのだ。ひとつの行動について、それが、「心の通うもの」であるかそうでないか、かならずそれはどこかに表現されるものだ。ごまかしがいつまでも通用するわけがない。高校のときにぼくの下級生だった少女が、「それだけあたしが悪人だったんでしょう」と言ったのはそんな意味ではない。それだけ自分に対してきびしくあることができる理性があった、という意味なのだ。「苦労は買ってでもせよ」というむかしからのことばがある。これは、「それによって人に認められるから良い結果を生む」というだけのことではない。その苦労が、自分自身の血となり肉となって自分を大きくするからなのだ。情は人のためならずと言うが、苦労もまた人のためならず、自分自身のためなのである。弱い男を演出する男の策略?女が強くなった0・ますます女性が男性に対して強くなりつつあるように見える。第一に、法的な立場がそうである。社会的な発言力がそうである。政治家たちは、女性を無視しては当選できない。何しろ、女性のほうが有権者が多く、投票率も高いのである。候補者たちは争って女性にアッピールするかつこうをし、女性におもねる政見を述べている。ウーマンパワの伸長はとどまることを知らない。男女関係についてもそうである。かつて、「犯罪の蔭に女あり」と言われた。今はそうではない。女が主役になっての犯罪が、ほとんど毎日のように発生する。保険金欲しさにわが夫を殺す女まで出て来ている。女が男を作り、幼いこどもを残して家出する。残された夫は、こどもを連れてテレピに出て、「おれが悪かった。これからはきみをたいせつにする。どうか帰って来てくれ」と泣く。若い女がニ人、道を歩いている。向こうから、ひとりの青年が来る。「ね、あの人、ポルがどっち側にあると思う?」「右」「あたしは左、よし」すれちがいざま、女の手が青年の股聞に伸びる。「キャッ」と叫んで、背年は逃げる。女二人はケラケラと笑って、「右だったわよ、あたしの勝ち。さあ、千円ちょうだい」現実に筆者が見た光景である。

また、こういうこともあった。喫茶店である。三人の若い女がテーブルを阻んでおしゃべりしている。「ね、あそこにいるあの子、ちょっといいじゃない?アタックしてみょうか?」「へえ、あんなのがあんたの好み?あたし、その横のがいいわ。こっちの命じることをなんでも聞きそう」「じゃ、あたしは最後のひとりでいいわ、どうせ今夜だけの遊びだもの」やがて、どうやら話がまとまって、三人の女たちは、かなり離れた席にいる男たちのところへ誘いに行き、六人でその店を出て行ったのである。同棲している男女がいた。ともに大学生である。女がアルバイトでスナックに勤め、十日もしないうちにバーテンと親密になった。同棲している男子学生がそれを知った。知った彼はどうしたと思うか?女をなぐりつけてたたき出すのが、筆者の学生時代の常識であった。そうではないのだ。彼は女にすがりつき、「ぼくを捨てないでくれ、バーテンと、会いたいときに会っていい。この部屋を使ってもいい。そのときはぼくは外に出ている。けっして邪魔にはならない。別れないでくれ」哀願したそうである。まさに女性上位時代である。いわゆる淘んでいる女にとっては、わが世の春だ。ーーであるかのように見える。しかし、はたしてほんとうにそうであるうか?これだけ遣う男と女の生理男女関係というものは、一部の思い上がった女たちが錯覚しているようなそんななまやさしいものではないのだ。プレイガルは、「男遊びをしてやる」「ポlイハントする」いかにも自分の行動が主体的であるかのように、そう考えている。ところが男もまた、「この女をもてあそんでやろう」と思っているのである。男によってはその場合、わざと受身の姿勢になる。受身の姿勢になる男が増えてきた。それだけ、男がずるくなったせいである。その姿勢にかかわりなく男が、自分を主人公にして女を「もてあそぶ対象」と見ている点では、同じである。この場合、男と女は対等である。「対等なら、よろしいじゃないか?」そう言う女があらわれそうである。たしかに、「対等」でよろしい。その時点においてはそうである。しかし、出発点はそうであっても、人間関係というものは変化する。第一に肉体的変化がある。男の肉体は、女によって変化しない。性病については男女平等だが、いかに相手から影響を受けるかについては、天地のひらきがある。ここでくわしく書くことは控えるが、くだらない男にひっかかっては、一生自分の肉体を損なってしまうものである。

男からうつされた悪いグセは、どうしょうもなく長い年月にわたって彼女につきまとう。場合によっては正常な性生活によろこびを感じない女になってしまう。第二に、妊娠である。男は妊娠しない。これは女だけに課せられたものだ。費用を男が出すにしても、そんなものは問題じゃない。妊娠中絶が肉体を傷つけること、普通医学に無知なわれわれの想像を越えておそろしいものだ。多くの無知な少女たちは、中絶のおそろしさを安易に考えている。「生んで、自分で育てるからいいさ」そううそぶく女がいる。女ひとりが子を生んで育てるのがいかにきびしいことか、父親のいない子がいかに苦しいム生の闘いを強いられるか、現実的に考えるべきである。第三に、心理の変化である。こういう例がある。ある背年と娘が、「一年間だけ」という期限付きで同棲した。一年経った。女にとって、男は別れられない存在になっていた。それでも、約束にしたがって別れなければならない。ハこの男をほかの女に渡すよりは〉そう思い込んだ女は、眠っている男を絞殺した。警察に自首してきたのである。親密な交際をつづけているうちに、いわゆる情が移って、遊びであったはずなのに遊びでなくなってしまう。こういうケスは、いかに女上位時代でも、やはり今なお、男よりも女のほうが圧倒的に多いのである。前記の女がバーテンと・鋭衝になった岡山怯者たちの場合、一年後に男が別に女を作って別れた。第四に、世間の自である。若いうちは、「世間など、どうでもよい」と思いがちだが、世間をパカにしてはならない。世間は、経験浅い者が考えているよりもはるかに強い力を持っているものだ。きみを、圧迫するものである。その世間は「独身附引が女遊びをするのは当然。女遊びしないほうがすこしおかしい」そう考えている一方、「男遊びしている女は、嫁にはもらえない。/まともにはっきあえない」と規定しているのであるう。この差別をまちがっているとわめくのは簡単である。しかし、たとえまちがっていようと許せない差別であろうと、それが世間一般の基本的なものの考え方であることは、いかにウーマンリプの人たちががんばろうとも、永遠に変革することができないだろう。男が最後に選択することそれはなぜか?確閤とした理由がある。若い男は、一定の日数が経てば射精しなければならない宿命にあるのだ。二十代の男で一か月も射精しないとすれば、異常である。医師に診てもらってしかるべきだ。